八乙女(やおとめ)蕎麦の蕎麦打ち会に参加してきました!

歯ざわりや、のどごしも素晴らしかった八乙女蕎麦。

東京箕輪会の理事、大井さち子さんより、5月26日(土)に箕輪町の早乙女で行われた「蕎麦打ち会」のレポートが届きましたので、ご紹介します。

 

 

箕輪町八乙女で毎月行われている蕎麦打ち会に参加してきました。
もちろん、打ち手ではなく、食べ手としてです(笑)。

 

とはいえ、私も以前、好奇心から蕎麦を打ってみたことがあるにはあります。
ところが、太く短くボソボソしたものができ上がり、
「こりゃ打ち手は無理だわ……」と自覚しての、食べ手参加だったのでした。

 

そば粉をこねる手さばきもすばらしい!
そば粉をこねる手さばきもすばらしい!

 

さて、

蕎麦打ちを極めるべく、熱心に習う皆さんを尻目に、手持ちぶさたの私は

「八乙女って、どうして『やおとめ』って呼ばれるようになったんだろう??」

などと蕎麦とは関係ないことを考えていました。
ふと、目をやるとそこには「八乙女区誌」。

さっそく手にとり、パラパラとページをめくってみたら、
ありました! 八乙女の呼び名の由来!

いろいろ説があるなかで、一番おもしろかったのが
「矢を止めたから」というもの。

 

なんじゃこりゃ???
みんなが蕎麦打ちに精を出す中
私の頭の中にムクムクと妄想ストーリーがわき上がってきたのでした。

 

時は古墳時代。
東方に勢力を伸ばそうとした朝廷は、
大軍を率いて伊那谷に攻め入った。

地元の有力な豪族たちが続々と降伏する一方、
従わない者たちは、容赦なく武力行使で滅ぼされる。

伊那谷を北上する彼らの前に立ちはだかったのは、諏訪の一族。
平出神社には諏訪と同じ御柱の文化が残っているから
当時、箕輪町の北側は諏訪の守りの最前線だったのではないか。。。

もし、戦いの中で有力者が命を落としたなら
きっと当時の最先端の技術で弔われたに違いない。
ん、松島には前方後円墳の「王墓」があるじゃないか。
しかも、上伊那の前方後円墳はこれ1基しか見つかっていない。

 

むむむ。
私の妄想はとどまるところを知らず、

「『北小河内』や『南小河内』って、戦いで連れてこられた
関西の「河内(かわち)」の人たちがつけた地名では……」

とか

「広い平らな場所に出て行って戦うから『大出』なのかも」

と箕輪町の地名と遺跡をヒントに、古代のシーンが次々と浮かんできました。

 

さて、話があっちゃこっちゃしましたが、
大事な「八乙女」のルーツに戻りましょう。

 

「八乙女」の名が「矢を止め」から来たとするなら、
その矢はいったいどこから飛んでくるのでしょう。

それは、北の沢川と深沢川が交差し、刻まれた深い谷の北側に陣取る諏訪の軍から。
さすがの勇猛な諏訪の一族の弓矢も、この谷は越えられず、
朝廷は地形を生かして、勝利したのでしょう。

朝廷軍が諏訪側の「矢を止め」た場所として名がつき、
その後、「八乙女」になったのかもしれません。

 

そんなイメージが頭の中を駆けめぐり、
ひとり、興奮冷めやらぬ状態でいましたら、

「大井さん、できましたよ〜」

の声で我に返りました。

 

のし棒で伸ばす手さばきもあざやかでした。
のし棒で伸ばす手さばきもあざやかでした。

 

どうやら、私が古代ロマンに浸って箕輪町内を駆け回っている間
蕎麦打ち会の皆さんは、蕎麦の固さや太さ、ゆで時間などを検証し合い
今日のでき映えについて真剣に語っていたようです。

げんきんなもので、蕎麦を見たら、古代から現代にあっという間にタイムスリップしまして
めでたく「八乙女蕎麦」に舌鼓。

試食を兼ねた宴席となったのでした。

 

ゆで時間にもこだわって、その日のベストな時間を割り出して茹でたとのこと。
ゆで時間にもこだわって、その日のベストな時間を割り出して茹でたとのこと。

 

それにしても、おいしく楽しい蕎麦でした。
(できあがりの蕎麦と、宴会の写真を撮り忘れるほどでした(汗))
本当にありがとうございました。

 

 

【追伸】
八乙女の蕎麦打ち会は、基本的に一般参加は受け付けていないそうです。

 

 

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